道具を「育てる」文化が、時間の質を変える

包丁・革・鉄鍋——手入れを重ねるほど馴染んでいく道具がある。道具を「育てる」という行為を通じて、40代からの時間の質と暮らしの豊かさを問い直すコラム。

台所の引き出しを開けたとき、ふと手が止まった。 使いかけのピーラー、100円ショップのトング、いつ買ったかも覚えていないハサミ。

どれも悪くはない。

一方で、父が使っていた出刃包丁が一本だけある。

黒ずんだ柄、刃に残る細かい傷。

それを手に取るたびに、何かが少しだけ戻ってくる気がする。

消費するか、育てるか

ものを「買う」行為と、「育てる」行為は、時間の向きが違う。

買う瞬間が頂点で、あとは少しずつ価値が減っていくものがある。反対に、使い込むほど手に馴染み、愛着が増していくものもある。

革の財布がいい例だ。新品のときは少し硬く、よそよそしい。

それが数年かけてくったりと柔らかくなり、角がすり減り、自分だけの色艶が生まれる。

誰も同じものを持っていない。というより、同じものには育てられない。

鉄のフライパンも似ている。

最初は油をなじませる工程が必要で、面倒に感じる人もいる。 でもその手間が、道具との関係をつくっていく。

「育てる」とは、時間をかけて関係をつくることだ。

40代に入って、手間が愛おしくなる

知人が40歳を過ぎてから、近所の研ぎ師に包丁を持ち込むようになったと話していた。

それまでは料理好きでもなく、包丁は「切れればいい」くらいの感覚だったという。

あるとき、うまく切れない包丁にイライラして、ふと思ったそうだ。 「これ、自分が雑に扱ってきたからじゃないか」と。

研ぎに出したその日、戻ってきた包丁の切れ味に少し驚いた。

トマトが、力を入れずに切れる。 その感触が、妙に気持ちよかった。

それ以来、包丁の扱いが変わったという。

洗ったあとに水気を拭く。刃を立てて置かない。大した手間ではない。

ただ、意識が向くようになった。

道具に気を向けることが、そのまま自分の時間に気を向けることになっていった。

手入れという、ひとりの時間

革製品にクリームを塗る。鉄鍋を洗って乾かし、薄く油を引く。砥石に水を張って、刃を研ぐ。

どれも、誰かと一緒にやる行為ではない。

ひとりで、静かに、手を動かす。

その時間は、何かを達成するためではなく、ただ道具と向き合うためにある。

情報も入ってこない。スマホも要らない。雑念が少しずつ薄れていくような、あの感覚。

現代の暮らしの中で、目的なく手を動かす時間は驚くほど少ない。だからこそ、その静けさが妙に心地よく感じられるのかもしれない。

「一生もの」という言葉の意味が、変わった

20代のころ、「一生もの」という言葉に憧れた。でもそれは、「いいものを持ちたい」という欲望に近かった気がする。

40代に差し掛かって、少し違う意味に聞こえてくる。

一生かけて、これと付き合っていく。 修理しながら、手入れしながら、変化を受け入れながら。 そういう関係のことを、今は「一生もの」と呼びたい。

道具は、扱う人間を映す。 雑に使えば、雑な答えを返す。丁寧に向き合えば、少しずつそれに応えてくれる。

それはたぶん、道具に限った話ではないのだろうけれど。

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