スニーカーのタグに書かれた名前を、人は案外ちゃんと読まない。
「ジャック パーセル」という四文字が踵のラベルに刻まれていても、それが実在した人間のフルネームだと意識して履いている人は、今どれほどいるだろう。
チャック・テイラーもそうだった。 リーバイ・ストラウスもそうだ。 名前がモノに吸収されると、人間はゆっくり背景へ退いていく。
コートの上の孤独な王者
ジョン・エドワード・パーセルは1903年12月24日、カナダ・オンタリオ州グエルフに生まれた。
通称、ジャック。
子どものころはテニスとゴルフで頭角を現し、バドミントンを始めたのは1924年のことだった。
遅いスタートだったが、才能は早く開花した。
1927年から1931年にかけて、オンタリオ州選手権を5連覇。カナダ全国選手権も1929年と1930年に制した。
国内に敵がいなくなると、1931年、パーセルはバドミントン発祥の地イギリスへ渡る。
しかし、そこで思いがけない話が待っていた。
なんと、カナダ国内でアマチュア資格を剥奪されていた。
トロント・スター紙に書いていたバドミントン・コラムが「報酬を受けた職業的行為」とみなされてプロ扱いとなったのだ。
記事を書いたことが、競技者としての立場を変えてしまった。
それでも彼はラケットを置かなかった。
プロに転向して、1933年にカナダ・イングランド・アメリカのトップ選手たちを破り、プロ世界王者として広く認められた。
その後、12年間一度も負けることなくコートに立ち続けた。
第二次世界大戦中はラケットやシャトルの入手が困難になり活動が鈍化したが、彼は一度も敗れることなく現役を終えた。
足元に残したもの
1935年、パーセルはB.F.グッドリッチ社のカナダ法人のためにキャンバスとラバーのバドミントン用スニーカーを設計した。
バドミントンコートでの足の保護とサポートを高めることが目的だった。
実は最初にこの靴の開発に着手したのはスポルディング社で、その後B.F.グッドリッチ社に引き継がれ、つま先の「スマイル」と呼ばれるラインをはじめとする現在のデザインの原型が完成した。
彼の名前は靴として製品化されて、持ち主の手を離れていく。
コンバース社がそのジャック・パーセルの権利を買い取ったのは1972年のことだ。
設計者がすでに引退して久しく、バドミントンの世界王者という文脈はとうに薄れていた頃に、靴だけが次の会社へと渡った。
名前だけが残る、というのは、こういうことだ。
静かな後半生
コートを去ったパーセルは、派手な余生を送らなかった。
引退後は株式仲買人として生き、トロント証券取引所のメンバーとなった。
数字と向き合う静かなキャリアだ。
1950年、カナダのスポーツライターたちは半世紀を代表するカナダ人アスリートの一人にパーセルを選んだ。
しかし一般にその名が知られるのは、人物としてではなく、靴のブランドとしてだろう。
1955年にカナダ・スポーツ名誉の殿堂入りを果たし、バドミントンがまだオリンピック競技でなかった時代に活躍した人物として、1973年にはカナダ・オリンピック殿堂にも異例の選出を受けた。
1991年6月10日、トロントで87年の生涯を閉じた。
その年、世界中の誰かが、彼の名前のついた靴を履いて、どこかの街を歩いていた。
名前の行き先
チャック・テイラーは、バスケットボール選手やセールスマンとして全米を回り、1932年に靴のアンクルパッチに自分の名前を刻まれた。
リーバイ・ストラウスは、ゴールドラッシュの時代に丈夫な作業ズボンを作り、デニムに名前を残した。
そしてジャック・パーセルは、バドミントンコートのために靴を設計した。
三人に共通するのは、モノが人間を超えて生き残った、ということだ。
ブランドになった名前は、もはや固有名詞ではなくなる。
発音されるたびに、人物の記憶は少しずつ薄れ、かわりにデザインや質感や色が前に出てくる。
悪いことだとは思わない。 ただ、そのタグに刻まれた人間がかつてコートに立ち、12年間負けなかった事実を、たまに思い出してもいいかもしれない。
靴紐を結ぶ、ほんの一瞬だけでいい。